「食える数学」
村中の大学教育は、文学部、しかもロシア文学部というとんでもない僻地の学問でした。では、私はロシア文学マニアなのでしょうか。いいえ。白状しますと、チェホフの桜の園は原文で読みましたが、カラマーゾフの兄弟を未だに通読しておりません。
そんな私が岡惚れしている学問が数学です。数学はキレイで大好きです。文系の村中がなぜ数学を、そんな理系の学問を、といぶかしく思うかも知れませんが、数学自体は、あえていうなら文系の学問です。中世ヨーロッパでは、数学科は文学部にありました。
数学は、科学の言語であるといわれます。そう、数学は最も厳密な言語であり、決して自然科学ではありません。自然科学とは何か、身も蓋もない言い方をすれば、自然を調べる学問です。自然とは何か、おおざっぱには、私たちが生きるこの世界のことです。ですから、自然科学の理論は、それがアインシュタインの相対性理論であろうが、ホーキングなどの超ひも理論であろうが、IPS細胞であろうが、すべては、この世界を計測することによって、データを取ることによって、あらかじめある理論がそのデータと整合しているかどうかを精査することによって、その正しさを実証します。自然科学においては、正しさを担保する根源は、現実世界です。
一方、数学は、完全に思考だけの世界です。その正しさを担保するために、現実世界の助けを借りる必要は一切ありません。例えば、自然科学においては、存在しない物は存在しませんが(何か、当たり前のように聞こえると思いますが)、数学においては、存在しても問題ない物は(他と矛盾しない物は)、存在します(存在していいではなくて、存在する)。背理法というやつですね。(√2はなぜ存在するか。存在しないとすると、矛盾が起きるからです。数学においていちばん大事なのは矛盾しないことです)。
さて、自然科学、工学の世界は、われわれ一般人から見ると、数学をバリバリ使いこなしているように見えますが、じっさいは、工学のひとは、数学の人のかったるさが、我慢ならないようです。工学科の人にとって、数学とは料理のレシピみたいなものであり、おいしい料理ができればそれで良く、なぜおいしくなったのかとか、そもそも「おいしい」の定義は何だとか、そういうことには興味がないようです。
そんな工学科と数学科の感覚の対立を描いた、「食える数学」という本を、今、楽しく読んでいるところです。