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主語よりも重要なもの

■ 主語と述語は近づけるべきか?  ベストセラーとなった『伝わる!文章力が身につく本』に、良い文章の書き方として次のような一節があります(※)。
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主語と述語は近づける。関係の深い言葉同士は近くに置く。
++ 例:
証人は容疑者が店員が外の騒音に気をとたれている最中に万引きしたのを見たと言った。
++ 改善例:
店員が外の騒音に気を取られている最中に容疑者が万引きしたのを証人は見たと言った。
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※ すみません、孫引きです。 https://twitter.com/YuzoNito/status/333074845623533569
これについての村中の意見を述べます。この筆者への反対意見です。
この筆者は「主語と述語は近づける方が文章は分かりやすくなる」と言っています。しかし、村中は必ずしもそうは思いません。 まず、少なくとも、この筆者の「改善例」はあまり分かりやすくありません。もう一度、この「改善例」を掲載します。いかがですか、この文章、分かりやすいでしょうか。
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「店員が外の騒音に気を取られている最中に容疑者が万引きしたのを証人は見たと言った」
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また、明晰性にも欠けます。「証人は見たと言った」は、「証人が言った」のか、「ほかの誰かが『証人が見た』と言った」のか判然としません ( 「家政婦は見たと言った」の場合、言ったのは家政婦ではない人だと読み取る方が自然)
しかし、人の言うことにケチをつけて、
(※ 村中なら、次のように改善します。
証人は言った。「店員は外の騒音に気を取られていました。容疑者が万引きをしたのはその隙です」)
この筆者は、主語と述語を近づければ文章は分かりやすくなると考えています。動作の主体である主語、その主体が行った動作である述語、この二つは近接した方が文章が分かりやすくなるという発想です。
しかし、この考えは誤りであると村中は考えます。この筆者の発想の根本には、「日本語の文章は主語と述語で成り立っている」という前提がありますが、実は、そうではありません。
少なくとも、日本語の「●●は、○○だ」という文章では、「●●」は主語ではないのです。
*** 「は」は主語ではない。
I am Muranaka という英語は、一般に「私は村中です」と訳されます。英語の”I”は主語なので、じゃあ、「村中は」も主語。つまり「は」は主語を表す言葉なんだねという理解になります。「僕は今日町に出かけました」、「ごはんはおいしい」、「おかあさんはやさしい」などの文では、なるほど「は」は主語です。
しかし、「<は>は主語と表す」と決めてしまうと、いろいろ不都合が起きます。次の文がそうです。
「あいつは嫌いだ」 (嫌っているのは私です。主語は私のはずです)
「ラーメンは好きです。そばは嫌いです」 (同上)
「ゾウは鼻が長い」 (長いのは鼻です。つまり<長い>の主語は<鼻>です。じゃあ、<ゾウ>は何なんでしょうか?)
「今日は町にでかけよう」(町に出かけるのは、私です。<今日>が出かけるわけではありません)
「男は度胸、女は愛嬌」(<男>と<度胸>はイコールではありません。<私は村中です>とは異質の文です)
「本当は、俺、つらいんだ」(つらいのは<俺>です。主語は<俺>のはず)
これらの文を「異質な例外」と決めつけるのも一つの手ですが、そうなると日本語には例外があまりにも多すぎることになります。それはもう「例外」とはいいません。
***「は」はテーマを表す。
実は、「は」を主語扱いにしているのは一般書だけです。日本語の専門の文法書では、「は」は「提題」の助詞であると記述されています。
提題というと、いかにもいかめつらしい語ですが、言わんとすることは「お題を提示する」、つまり「テーマを示す」ということです。
「は」は主語を表す語ではなく、「テーマ」を表す助詞なのです。
そう考えると、先ほど「例外」扱いされた文章もすべて説明がつきます。
「あいつは嫌いだ」
 → 「あいつについて言えば、俺は嫌いだ」
「ラーメンは好きです。そばは嫌いです」
 → 「ラーメンについて言えば、好きだ。そばについて言えば嫌いだ」
「ゾウは鼻が長い」
→ 「ゾウについていえば、あの動物は鼻が長い」
「今日は町にでかけよう」
    → 「今日について言えば、町にでかけることにする」
「男は度胸、女は愛嬌」
    → 「男について言えば、度胸がだいじだ。女なら愛嬌だ」
「本当は、俺、つらいんだ」(つらいのは<俺>です。主語は<俺>のはず)
    → 「(見せかけではなく)本当の気持ちについていえば、今、つらい」
テーマというのは、つまり「強調したいこと」です。何を強調したいかによって、「は」にくっつく言葉は変わります。
「今日は町にでかけよう」は、
「町には今日でかけよう」
「町に出かけるのは今日にしよう」
という風にも帰られます。
応用編としては、
「あいつとだけは、町にいっしょにいきたくない」
「あなたとは、町にでも出かけたいな。今日は」
のような文章も可能です。こうして見ると、日本語は多彩な表現が可能で、なかなか便利な言葉ですね。
テーマは、文に一つではなく、いくつかの文が集まった段落に一つあれば良いとも考えられます。というわけで次のような文が可能になります。
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ラーメンは美味い。一杯飲んだシメとして、あつあつの麺をはふはふ言いながら食べ、脂肪分の多いこってりしたスープを残さず飲み干す。太ったってかまうものか。この至福の時が味わえるならば。
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この文章では、いわゆる「主語」はすべて省略されていますが、冒頭で「ラーメン」というテーマが示されており、それは段落内で一貫しているので、文章のわかりやすさは失われません。主語を省いてもOKです。テーマさえ一貫していればよいのです。
なお、「今日は、町に出たのは買い物をしたいと思ったからです」のように、一つの文章中に「は」が何度も出てくるのは、「まちがいとはいわないが、ぎこちない文」とみなされます。
これは、一個の文の中に、テーマがいくつもあると、焦点が拡散するので良くないという考え方です。
*** テーマは冒頭にあるのが原則
テーマというからには、それは文の冒頭で示されるのが望ましいと言えます。
冒頭で示した「店員が外の騒音に気を取られている最中に容疑者が万引きしたのを証人は見たと言った」という文が、「改善例」と称しながらも結局わかりにくいのは、「証人は」という、テーマを表す単語が文の後の方に来ているからです。
ちなみにこの文が分かりにくいのは、「証人は見たと言った」、「店員は騒音に気を取られていた」、「容疑者が万引きをした」という三者が登場するシーンを無理矢理ひとつの文に纏めようとしているからです。
村中の改善例である「証人は言った。『店員は外の騒音に気を取られていました。容疑者が万引きをしたのはその隙です』」は、そうした無理をせず、3つの事象は3つの文で表しました。各々文の冒頭に「証人は」、「店員は」、「容疑者が万引きをしたのは」という形で文のテーマが示してあります。
文章を分かりやすくするために大事なことは、「主語と述語を隣接させること」ではなく、「テーマ(=話の地図)を最初に示すこと」だというのが村中の考えです。
*** 「主語と述語を隣接させるのは、必ずしも文章術の主流ではない」
「主語と述語を隣接させることが分かりよい文章につながる」という発想の根底には、おそらく欧米言語の明晰性への憧れがあると考えます。
「私は今日、買い物をしに町へ出かけませんでした」という文では、最後の最後で文の意味がひっくり返ってしまう。なんて厄介な(遅れた)言語なんだ、日本語は。これが英語なら、I did not go shopping … というように、主語と述語が隣接しているから、重要な情報は文頭に全部集まっている。やっぱり、英語は明晰だ。これに習って、日本語も主語と述語は近づけるべきだ、と。
村中はこの考え自体に反対はしません。たしかに英語は、すばらしく明晰な言語であり、それに学んで得られる果実は大きいといえます。
しかし、良い文章構造を持つ言語は英語以外にもあります。たとえば古代ローマ帝国の言語、ラテン語がそうです。
今、科学論文がみな英語で書かれるのと同様、かつて欧米の学問的著作は全てラテン語で書かれました。ラテン語こそは、論理を表すための最も明晰な言語であると見なされたのです。
英語もフランス語もドイツ語も、その文法構造や語彙や文章術の多くをラテン語から吸収しています。
では、その「明晰性のお手本」の言語であるラテン語では、主語と述語は、英語がそうであるように、互いに隣接しているのでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。ラテン語では、動詞は最後に置くのが標準の文章作法でした。これが実に不思議なことなのですが、ラテン語は、英語をはじめとする欧米語の源流言語でありながら、こと「語順」に関しては、英語よりも、日本語の方に近いのです。
Amici Flaccum  in atrio salutant.
「友人たちはフラックスに入り口の広間で挨拶する」
Amici(友人たちは) Flaccum(フラックスに) in(で) atrio(入り口の広間)、salutant(挨拶する)
となります。語順が日本語とほぼ同じなのが分かると思います。動詞は文章の最後に来ています。
もう少し複雑な文章を見てみましょう。
+++ 1:
Hoc tempore obsequium amicos, veritas odium parit.
「今の時代では、追従が友を、真実は憎しみを生む」.
Hoc(今の) tempore(時代では) obsequium(追従が) amicos(友を), veritas(真実は) odium(憎しみを) parit(生む).
+++ 2:
Ariovistus ad postulata Caesaris pauca respondit, de suis virtutibus multa praedicavit
「アリオウィストゥスは、カエサルの要求には少しだけ応え、自らの武勇については多くを広言した」
Ariovistus(アリオウィストゥスは) ad(には) postulata(要求) Caesaris (カエサルの)pauca(少しだけ) respondit(応え), de(については) suis(自らの) virtutibus(武勇) multa(多くを) praedicavit(広言した)
+++3
Viros, fortes, maganimos, eosdem bonos et simplices, veritatis amicos esse volumus
「人士たるものは頑強かつ精悍で、それと同時に善良かつ率直な、真実を愛する士であることを、我らは望む」
Viros(人士たるものは), fortes(頑強かつ), maganimos(精悍で), eosdem(それと同時に) bonos(善良) et(かつ) simplices(率直な), veritatis(真実を) amicos(愛する士で) esse(あることを) volumus(我らは望む)
+++4
Nihil agendo homines male agere discunt.
「何もせぬことにより人間は悪事を為すことを学ぶ(小人閑居して不善を為す、の意味)」
Nihil(無為を)agendo(することで) homines(人間は) male(悪事を) agere(為すことを) discunt(学ぶ).
+++4
Ad eas res conficiendas biennium sibi satis esse duxerunt;
「これらのことを完遂するには2年あれば自分たちには十分であると見積もった」
Ad(には) eas(これらの) res(ことを) conficiendas(完遂する) biennium(2年<あれば>) sibi(自分たちには) satis(十分で) esse(あると) duxerunt(<彼らは>見積もった)
なお、英語では次のようになります。
They reckoned that a term of two years would be sufficient for them to execute their designs; 
They(彼らは) reckoned(見積もった) that a term of two years(2年も) would be(あれば) sufficient(十分だ) for them(自分たちが) to execute their designs(この計画を実行するには); 
ラテン語や英語とは語順が真逆になっているのがわかります。
—————————————————————
いずれの文章も十分に複雑な内容を語っていますが、語順は日本語訳とほぼ同じです。違うのは前置詞ぐらいです。
いずれの文章を見ても、ラテン語では、動詞が最後に置かれていることがわかります。
では、なぜラテン語では動詞の位置は末尾なのか。日本語の場合は、「それが決まりだから」というのが理由です。「私は・です・村中」という文は作れません。
しかしラテン語は屈折語なので、語順はほぼ完全に自由です。つまり、「私は・です・村中」式の文章を作ることも可能。それでも文章として成立します。
したがって、ラテン語の文章家が動詞を最後に置いているのは、そうせざるをえないからではなく、それが一番いいと思うから進んでそうしている、ということになります。
ラテン語の文章では、一番大事な場所は文の始め、二番目に大事なのは文の最後と考えます。それにしたがって、一番大事な単語は文の先頭に、次に大事な物は最後に置くのです。最初と最後をビシッと締めようという考えです。
主語の位置は、動詞ほど一定ではありませんが、重要な情報なので文頭に来ることが多いです。ということは、ラテン語では、主語と動詞は近接しません。それどころか、ものすごく遠距離に離れるのです。
ラテン語と日本語は語族も文法構造もまったく違う言語なので、安易に同一視することはできません。しかし、語順、すなわち「情報を提示する順番」において、古代ローマの名文家が、「こうするのが一番分かりやすい。よく伝わる」と考えた順番が、日本語のそれとほぼ同じであることは非常に興味深く思えます。
少なくとも、英語のように主語と動詞が近接して文頭に並ぶ語順が、分かりやすい文章の必須条件であるということは、決してありません。
**** テーマ・レーマ構造。
先に例示した文章では、ラテン語でも日本語でも「テーマ」を表す単語が文頭に来ています。
Hoc(今の) tempore(時代では) 
Viros(人士たるものは)
Ariovistus(アリオウィストゥスは) 
これは偶然ではなく、「テーマを文頭で示す」ことは、日本語だけでなく、ラテン語でも良い文章の標準形と見なされます。
Horum omnium fortissimi sunt Belgae, 
「これらすべてのうち最も勇敢なのは、ベルガエ人である」
Horum(これら) omnium(すべてのうち) fortissimi(最も勇敢なのは) sunt(である) Belgae(ベルガエ人),
この文章では、「Horum omnium fortissimi これらすべてのうち最も勇敢なのは」がテーマで、その答が、「Belgae(ベルガエ人)」です。
このように文の始めに「テーマ」を置き、その後で「 そのテーマへの説明、謎解き」を行う構造を、「主部・述部(テーマ・レーマ)構造」と言います。
なお動詞は、「何らかの動き」を表すものであり、それは主題に対する「謎解き(●●は、こう動いた)」として機能するのが通常です。これがラテン語の文章で動詞が最後に位置する理由であると思われます。
*** 英語も結局はテーマ・レーマ構造。
実は、英語でも、このテーマ・レーマ構造は多用されます。
+++1:
Nothing is more important than time
テーマ:Nothing is more important than (何にもまして重要なのは)
レーマ:time (時間である)。
+++2:
Histroy begins when men begin to think of the passage of time in terms of …
+++3:
テーマ:Histroy begins (歴史が始まるのは)
レーマ:when men begin to think of the passage of time in terms of …(人間が時間の経過を…という観点で考え始めたときである)
+++4:
With these changes of civilization came a new way of life
テーマ:With these changes of civilization (文明がこのように変化したその結果として、)
レーマ:came a new way of life(新しい生活様式が到来した)
+++5:
He died young.
テーマ:He died (彼は死んだ)
レーマ:young(若くして)
英語の場合は、「既知・未知 構造」とも呼ばれます。文章の最初には、既知情報を置き、後には新情報を置くのです。
これは結局、テーマ・レーマ構造と同じです。なぜならテーマ(主題)とは、書き手にも読み手にも共通の認識、すなわち「既にお互い分かっていること」、すなわち「既知情報」でなければならないからです。
*** 中国語もテーマ・レーマ

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