最近、見かけた新書の帯に「財布に落ちられる、とはなぜ言わないか」というコピーがありました。
日本語には迷惑受け身というものがあります。
「親に死なれる」
「雨に降られる」
「やられた~」
などがそうです。
この新書では、「雨に振られる」とは言えても「財布に落ちられる」とはなぜ言えないかと問うているのです。
これについての村中の考えを述べます。
*** 受け身文の作り方が日本語と英語ではまったく違う
まず、そもそもどうして「親に死なれる」のような迷惑受け身が成立しうるのかを考えてみます。英語の受け身の場合、I love you が you are loved by meのように、主語と目的語がひっくり返してつくります。この方式からは、「親に死なれる」のような文章は成立しえません。
ということは、日本語の受け身文というのは、何か英語とは根本の方式、成り立ちが違うのではないかと予測されます。
日本語では受け身は、「~られる」という語尾で表されます。「子羊はオオカミに食べられてしまいました」のように使います。
しかし「~られる」の意味は、受け身だけではありません。この他、「このキノコは食べられる」のような「可能」の意味、「社長が言われた通りです」のような「尊敬」の意味、「秋の気配が感じられる」のような「自発」の意味に使われることもあります。
「~れる」、「~られる」には、その一語で「受け身」、「可能」、「自発」、「尊敬」の四通りの意味があるのです。
*** なぜ一つの語だけで、「受け身」、「可能」、「自発」、「尊敬」という異なる意味が背負えるのか。
なぜ一つの語に四通りもの、それもそれぞれ全く違う意味があるのでしょうか。たとえば英語の助動詞canが「可能」という一つの意味しか持っていないことに比べると、きわめて異様に見えます。
実は「~れる」、「~られる」の基本的な意味は、「自発」です。
この自発、自然発生という一つの意味から、他の「可能」、「尊敬」、「受け身」の意味が導かれます。
*** 「自発→ 可能」の理路
日本語では、世の中のできごとを、「誰かが何かをした」という形ではなく、「ある場所で何かが生じた」という形で記述したがる傾向があります。
この「~れる、~られる」は、「何かがどこかで他の何の力も借りずにごく自然に発生した」ことを表します。
これが転じて、「何かが自然に発生する → ごく自然にできるようになる」ということになり、「可能」の意味を持ちます。
日本語では「英語が出来る」といいます。ところで「わたしが村中です」という文の主語は「わたし」なので、これになぞらえれば、「英語が出来る」の主語は「英語」になります。そう、「英語が出来る」という文章は、「英語が、(まるで穴の中から)出てきた」ような様を表しています(「できる」を「出来る」と書くのは当て字ではありません)。日本語では何かが可能になるとは、自らの能力で何かを克服するのではなく、自然に発生するような状態を通じて起きることのなのです。
*** 「自発 → 尊敬」の理路
次に「見られる」、「言われる」など「尊敬」の用法ですが、これは「相手が今行った動作は、こちらの意向とは関係なく、ごく自然に発生したものである」という理路で「尊敬」の意味を得ます。敬語には、「ご覧になる」、「おやりになる」など「~になる」という語法もありますが、これも自然発生→敬意という理路は同じです。
*** 「自発 → 受け身」の理路
最後に「受け身」ですが、これは「自分のあずかり知らぬところで、自然に発生したこと → 自分は受け身になるほかない」という考え方です。これは、動作主と動作対象をひっくり返す欧米語の受け身とは根本的に考え方が異なります。
「親に死なれる」「雨に降られる」とは、自分の意志とは関係なく発生した「親の死」、「降雨」などが自分の心身に影響を与えていることを示します。
*** 日本語では受け身はもともと迷惑なもの。
「言われる」「触られる」「やられる」などの語は、動詞単独であっても迷惑感が感じられます。「言われちゃったよ」、「やられたよ」は、明らかに迷惑の意を表明しています。
このように日本語では、受け身表現と迷惑感はそもそもよくなじむものなのです(「愛されている」などの語は、英語からの翻訳です)
*** 「財布に落ちられた」とはなぜいえないのか。
では、冒頭の設問、「財布に落ちられた」とはなぜ言わないかという問題に解答します。
「~れる、~られる」が迷惑受け身となるのは、何かが自分のあずかりしらぬことで自然発生した場合です。この何かは、「自分の意志が及ばない何か」ですから、当然、自分とは別の何かになります。
一方、財布とは自分に密着させて携帯する物、自分の一部です。したがって、財布は、自分と別の何かが自然発生し、それにより自分が迷惑を被るという迷惑受け身の語法には、そぐわないのです。