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自分の今の価値を数字でざっくり知る方法
景気対策が成功すると、景気はかえって悪くなる
特に薄型テレビの場合は、 地デジやエコポイントなどの国策支援を電気メーカーも気がついていたでしょうから、ある種の「使命感」をもって供給増の努力をしたかもしれません。つまり、みんなが薄型テレビを買おうとしているのに、店頭に商品がないのでは、自社も儲からないし、国もがっかりするわけですから。
しかし、同じ事は薄型テレビメーカーの全社がやりますから、全体の供給力はどんどん上がり、供給過剰になる。そうなれば当然、価格競争が始まります。
価格競争なんてバカなことに参加しなければいいじゃないかというのは外野の言い分で、いったん始まった価格競争からは絶対に抜けられないことが、この本では囚人のジレンマの理論を使って、精緻に論証されていました。。
怒りと咆吼のラブソング
音楽は、小学校の頃にザ・ベストテンなど見ながら、渡辺真知子のLPをはじめて買い、中学校からはロックファンでロック一筋になり、レッドツェッペリンやルーリードやドアーズやスロビンググリッスルなど良く聞いていましたが、この年になると、音楽で何かのジャンル一筋に聞き込むということはなくなり、何でも大好きになりました。
そして、最近は、自分はどうも女性ボーカルの歌い上げるタイプとか音圧が強いタイプがけっこう好きらしいということがわかってきました。渡辺真知子の「ブルー」、「かもめが翔んだ日」とか大橋純子の「たそがれマイラブ」とか。
しかし、広瀬香美とか、八神純子の水色の雨とかドリカムとかの、「ほぉら、わたし声が出るでしょぉ」というような歌唱は少々苦手です。みずいろの雨なら、八神純子より、森昌子のカバーの方が好きです。悠然としていて。
女性のパワー唱法はいいですね。外国だとポインターシスターズとか(1:40 のあたりから、とんでもないことになります)
そして最近、遅ればせながら魅了されているのがレベッカです(三日前からファンになりました)。
村中は何かのファンになると、自分はそれの何をいいと思っているのか、文章を書きながら考えたくなるクセがあります。すみません、それでは書いてみることにします。
レベッカは、NOKKOさんを中心にしたロックバンドで、80年代後半、バブルの頃に一世を風靡しました。村中はリアルタイムで経験しているはずなのですが、当時はその良さに気がつけませんでした。
いやあ、あらためて聞くとNOKKOさん、すごいですね。ものすごい歌唱力と音圧とパワーですね。こんなすごい歌い手だとは当時、気づいていませんでした。
NOKKOさんの歌唱の魅力については、ネット上で多くの人が絶賛していますが、その中で、おお、これは鋭いと思ったのが、こちらのブログです。http://www.satonao.com/cd/j_pops/rebecca.html
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ユーミンなんかのほうが、もちろん、完成度は高い。
阿木燿子はビジネスとして素晴しい出来。
NOKKOに一番近いタイプはドリカムの吉田美和かもしれません。
でも「育ちが違う」んですね。
吉田美和のほうが育ちがいい。NOKKOは育ちが悪い(あくまで作詞の印象のはなし)。裏道でお腹をすかせている感じがあるんです、NOKKOには。
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なるほど、確かにNOKKOさんほど、「いつもお腹をすかせた野良猫」のようなティーンエージャーの焦燥感を感じさせる人はいません(実際のNOKKOさんは、10歳の頃からクラシックバレエを習うなどしており、決して実際の育ちは悪くないようですが)
では、この方の卓見を参考にして、村中の感想を述べてみますと、
NOKKOさんの歌詞の魅力が「お腹をすかせた感じ」なら、
その歌唱の魅力は、「怒り」ではないかと。
この人の歌は、どんなにかわいらしい歌詞を歌うときでも、どこかに「怒り」を感じます。レコードでは、一般に受け入れられるよう洗練されていますが、ライブになると、怒りがあらわになります。というわけで、レベッカはライブの方がよく、村中は基本、ライブばかり聞いています。
NOKKOの魅力は「怒り」だと感じたのは、レベッカの曲の中でいちばん好きなこの「真夏の雨」のライブを聞いたときです。
この歌は、真夏の雨が8月の熱いアスファルトにたたきつける青春の情景を歌ったスローバラードですが、中盤から後半にかけては、歌唱というよりはむしろ咆吼。それでいて、繊細さは失わず、むしろせつなさが増していきます。音が出せる環境の人は聞いてみてください。これ、ちょっと、すごいですよ。
村中はこの歌を、特にレコードよりもライブの方をとても魅力的に思うのですが、ではその魅力の根源、この歌にあって他の女性歌手の歌にないものは何だろうと考えたとき、それは「怒り」ではないかと思いました。
この「怒り」は、松任谷由実にも吉田美和にも、他のどの歌手にも感じることができず、この時期のNOKKOだけの唯一無二のものだったと思います。
こちらヒット曲、LONELY BUTTERFLYはイントロも歌詞もかわいらしい歌ですが、当のNOKKOは、いったいなぜそこまでというぐらい、武道館の大観衆の前で、怒りまくっています。小さい恐竜のようだ。
こちら大ヒットシングルの「フレンズ」もライブの方がずっといいです。
こちらの野外ライブとかすごいですね。歌っている5分の間じゅうバズーカ砲をブッ放しつづけているかのようです。
レベッカに関心を持たないで聞くと、レコードはキンキン歌っているだけ、ライブはギャーギャーわめいているだけで、ちっとも歌が上手そうに聞こえないかもしれませんが、いやあ、こんなのNOKKO以外に絶対歌えないって。
ラブソングの歌唱に「怒り」の要素をいれることで、魅力的な世界を作り上げたのは、NOKKOさんだけのように思います。
またいかにも恐ろしげな声は、そもそも聞き手に「怒り」を感じさせません。たとえばヘビィメタルで、男のダミ声で絶叫する「デスボイス」というのがありますが、あれは威嚇ではあっても、怒りは感じない。むしろギャグ。あれよりは、レベッカの「真夏の雨」の方が怒りを感じます。
暴力的な音楽というのはあります。しかし、暴力と怒りは少し違う気がする。
ところでさっきから怒り、怒りと書いていますが、いったい何に対する怒りなんでしょうか。
そのように問うならば、答えはやはり、「愛されたい怒り」、「何かを求める怒り」ということになるでしょうか。そうでないとラブソングに乗らないですし。
ただ「愛されたい怒り」などと書くと何だか高貴ですが、それは要するに「なんでなのよぉぉ」というあの気持ちのことです。これは凡人にも身に覚えのある感情ですが、しかし、それを「表現」に高められるのが、すごい歌手の力、歌唱力です。
怒りは表現方法を間違うと、とても見苦しく、聞いていて不愉快になります。怒りを美しく表現するには、膨大なテクニックが必要です。自分の感情をぶちまけても、歌が乱れない声の基礎体力が必要になる。
もちろんテクニックだけではだめで、歌い手の心の中に、わき上がる本当の怒りが必要です。しかし、怒りは、一生のうちでそれが持てる時期が10代から20代前半に限られている希少なものです。
そうした持つことも表現することも難しい感情を、すごい歌唱力と迫力で実現し、音源や映像を残してくれた歌手はNOKKO以外に思いつきません。ありがとうです。
身長150センチの細くて小さな女の子が、精一杯の背伸びをしながら、自分ではどうにもならない怒りを抱えて、それをすさまじい音量と音圧に乗せて、ラブソングの形で、大観衆の前で歌い上げている光景はとても魅力的に思えるのです。
そのNOKKOさんも今は50歳。ダンナさん、娘さんと一緒に、伊豆半島で田舎暮らしをし、すばらしい人生を送っているそうです。なるほどです。このような高純度の怒りを一生、持ち続け、表現するのは、とうぜん無理なわけですし。
本当に良い時に歌手になってくれて、いい映像やいい音源をたくさん残してくれたものです。天才が自分の才能を正しく使ってくれました。その意味では、NOKKOさんの才能を120%引き出してくれた作曲者の土橋さんにも感謝です。
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※ NOKKOがいかに他を圧倒する歌唱力の持ち主であったかは、こちらのブログで音楽の専門知識を持つ人が詳しく分かりやすい解説をしています。ご覧ください。http://music-milk-tea.blog.so-net.ne.jp/2007-10-28?comment_success=2013-11-10T11:53:31&time=1384052011主語よりも重要なもの
アキレスがカメを追い越せないなんてあり得ないと理解する方法
■ アキレスはカメを追い越せない?
みなさんゼノンの逆理というのを聞いたことがありますでしょうか。
俊足のアキレスが、目の前をのろのろ走るカメを追い抜こうとするが、それは絶対に不可能なことなのだ、なぜならば…とつづくアレです。
もちろん、現実世界で、人がカメを追い抜けないなどということがあるわけがありません。わたしもあなたもタッタッと歩けば、カメなどひと抜きです。
しかし、ゼノンの論法で考えると、何だかどうしても抜けないような気がするのですね。
村中がこの逆理を知ったのは、中学生の頃で、どう考えても反論できないのでたいへんイライラしました。納得いかーん。
イライラしているのは、かつての村中だけではないようで、今なお、Yahoo質問箱や教えてgooでも、「教えてくれ~」という書込が入ります。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1219652.html
■ 哲学への興味、そして疑問(何か適当なこと言ってわしを誤魔化そうとしてないか?) それから哲学に興味を持つようになり、大学の頃に、「西洋哲学史」なんて一生懸命読んでみたりしました。良くあるパターンですね。若い頃は、哲学的な単語、「一と多」、「純粋経験」、「イデア」、「近代の超克」、「絶対矛盾的自己同一」などなどに美を感じる時期もあるものです。
しかし、社会人になる頃から、どうも哲学というのは、言葉には独特の雰囲気があって美的ではあるけれど、しかし言っている内容というのは、いくら読んでも良く分からない、真面目に考えれば考えるほど良く分からなくなってくる、むろん素晴らしく頭のいい人が素晴らしくよく考えた研究成果だから、つつしんで拝読する他はないが、でも、中には、雰囲気だけで適当なこと書いてる人もいるんじゃねーの、と。
おそらく社会人になって、「本に書いてある立派なことも、往々にして著者の自己顕示欲と虚仮威しである」ということが実感できてきたのでこういうことを思うようになったのかもしれません。「もう哲学にはケムにまかれたくないな」と。
■ 1+1はなぜ2なのか?がまともに書いてある本。
そんなとき出会った一冊が数学エッセイ「無限の果てに何があるか(足立恒雄 著)」でした。
この本は、数学の基本的な考え方、思想を記した本です。カッパブックスという一般人向けの新書シリーズの中で出された本ですが、内容は本格的です。著者自身、「たとえ話とイメージで逃げるようなことはしていない」という趣旨のことを語っています。
目次がすごい。たとえば「1+1はなぜ2なのか?」で50ページ近く語られています。一般人なら、「1+1がなぜ2かって、そんなの当たり前だろ」で片づけてしまうところですが、この本では、それが「なぜ」、2なのかを証明(※ 正確には、最小限の定義、公理から「構築」)していくのです。
村中はこの本を読んで、はじめて1+1がなぜ2なのかが分かった気がしました。「1は単位であり数ではない。2は多の最小数である」みたいな分かったような分からない話と違って、読んでいくと、本当に1+1が2である理由が分かってくるのです。
しかし、これを分かるには、数学的世界に自己の波長を合わせねばなりません。しかし、そのチューニングを一般人が一人でやるのはたぶん無理です。名人のガイドなくしては、数学の世界観に没入できません。
そのガイドをしてくれるのが足立先生の書いた「無限の果てに何があるか」です。
その他、この本を読むと、「平行線が交わってもぜんぜん問題ないことの理由」、「無限というのはつまり何なのか?」、「同じ無限でも『大小』がある」など興味深いことが真に理解できます。
「イメージや例え話でわかったつもり」ではなく「本当に理解したい人」には最適の内容です。
こんな素晴らしい本なのに残念ながら絶版。でもアマゾンでは1円で売っていますから、まずは騙されたと思って買うのがよいと思います。
■ ゼノンのパラドックスはとっくに解決されている
そして、その足立先生の最新刊が、「数学から社会へ、社会から数学へ」というエッセイ集です。
足立先生は、冒頭触れたゼノンの逆理について、「定義について」というエッセイの中で、「こんなものは数学界ではとっくの昔にケリがついている。にも関わらず日本では、現代においても、いまだにゼノンの逆理についての論文(?)が発表されている。まことに恐縮だが、哲学のみなさんにはあなたあほですかと言いたい」という趣旨のことを言っています(※ あくまで「趣旨」です。こう書いてあるわけではありません)。
批判対象は具体的で、たとえば哲学の重鎮とされる大森庄藏氏の「ゼノンの逆理と現代科学」という文を引用しています。
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結局アキレスとカメの逆理は二分割と呼ばれるもう一つの逆理と同じ構造であって、ゼノンの逆理の確信は無限の中間点を通過できないから目標点に到達できないということである。つまり「無限」という概念の意味からして次々と無限の点を通過し終える運動は不可能だというのがゼノンの逆理の骨格なのである。
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昔の村中なら、へへー、そうでございますかと謹んで拝読していたような文章ですが、足立先生はこれに対し、「こんな『酔っぱらいのタワゴト』が論文になるくらいなのだから、哲学というのもずいぶんとでたらめの世界なのだね、と言いたい」とバッサリ。
もちろん、その後には根拠が示されます。
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「無限の点を通過することは無限という概念の意味からして不可能である」と書かれているが、「通過し終えることができない」というのを無限の定義、あるいは性質とするのはギリシア時代ではそうだったのかもしれないが、現代数学ではまったく違う。 —————————————————————
これはなかなか手厳しいひとことで、要するに「ギリシャ時代に提出された問題を、ギリシャ時代の思考の枠組みで分析しているようでは、進歩がなさすぎる。数学はすでに十分に発達して、今や逆理を逆理でなくす発想を獲得している。それを踏まえることもなく、言葉を弄んでも無意味である」と言っているわけですね。
(※ ここでは省略しますが、エッセイ文中では、ゼノンの逆理に対する数学的回答が明確に書かれています)
■ 定義だけで構成された透明な世界
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たとえばデデキントに従えば、集合XはXからXへの全射でない単射が存在するとき無限である、と定義される。ここには「無限の点を通過する」というような
ナイーブな言葉は出てこない。そもそも「通過する」とはどういうことを意味しているつもりなのだろうか? 数学はすべて定義から始まる。自然言語を恣意的に使って数学、あるいは数学のモデルの問題を論じるのはきわめて危険である。
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文中に、「数学はすべて定義から始まる」という言葉があります。数学の、その徹頭徹尾合理的であるにもかかわらず、一般人にはきわめて異質な思想の根本にあるのが、この「数学はすべて定義から始まる」という一語であるように思います。
■ 平行線が交わっても、四次元や89次元の世界があってもぜんぜんかまわない。
数学の世界では一般人の一般感覚では理解しがたい言明が連発されます。「平行線が交わる(んなわけーねだろ)」、「平行線は1本だけでなく無限にある(ありえねー)」のように。
中学生の頃の村中は「あのさ、平行線というのは交わらないから平行線っていうんだよ。交わったら平行線って言わないの」と言いたくなりました。
しかし、今では、感覚が変わりました。「交わらないものを平行線とするのも一つの定義だが、平行線を交わるとしてもその他の定義と矛盾はない。だったら、平行線が交わるという世界があっても、ぜんぜん問題はない」と。
それ以外にも昔は村中には四次元というものがさっぱりわかりませんでした。えー、だってこの世は、縦・横・高さの3次元でしょ。何で4つ目が出て来るのよ、この世は四次元てどういうことよと不思議でした。実際、SF映画や漫画でも「四次元世界からヤプール人」のように、四次元というのはオカルト、ミステリー、人知の及ばない不思議なものとして扱われていたように思います。
しかし、最近は「何かを特定するのに変数が3つじゃ足りなくて4つ必要だというだけの話でしょ」と思えるようになりました。ぜんぜん人知が及びます。この感覚なら、5次元でも、19次元でも、20134次元でもまったく問題ありません。
「3次元」という概念を、縦、横、高さという自然言語を使って理解することをやめてみたら、頭がスッキリして、何の矛盾もなくなったというわけです。
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数学的なセンスというのは、論理的に厳密に考えられる、ということでもなければ、とっぴなアイディアが出せるということでもない。それは、いま言った「矛盾しなければ存在するとしても、ちっともかまわない」という基本思想が身についているかどうかだけだろう。この思想こそが思惟だけの学問である数学と、しがみつかねばならない対象(物理なら自然現象)を持った学問とを区切っている、大きなちがいである
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「矛盾しなければ存在するとしても、ちっともかまわない」というこの感覚が身についたのは、数学の本を読み続けて得られた、新しい世界でした。とても自由な世界です。
数学の異質な世界を、おためごかしではなく本格的に理解させてくれる足立先生の各著作。
その異質な世界にいきなり本格的に没入したいのなら、「無限の果てに何があるか」をおすすめします。
いや、まずは現実世界と連関させて、その感覚をまずは一口味わいたいというのであれば、「数学者の目で世相を観る」と副題のある最新刊、「数学から社会へ、社会から数学へ」をおすすめします。