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政治と売上げ

村中がまだ20代前半の新卒社会人だった頃、お客様から会社にかかってきた苦情電話を運悪く(?)受けてしまい、あわあわしていたところ、先輩が、「村中クン、そんなに真剣に対応しなくていいよ。その人って、ウチのお客にはならない人だからさ」とアドバイスをくれました。


業界によっては、さらに露骨に、儲けにならないお客を「ゴミ客」、「どぶ客」と呼ぶところもあるそうです(こうした言葉で検索すると例が出てきます)。


ここまで露骨でなくとも、顧客を購買実績別に「Aランク」、「Bランク」、「Cランク」に分別するぐらいはどの企業でもやっているでしょう。「お得意様」と「通常のお客様」ぐらいの区別ならどんな小さい商店でもやっています。


このように、企業というものは「たくさん買ってくれる人」を優遇し、「あまり買ってくれない人」「ぜんぜん買ってくれない人」は冷遇しないまでも、普通視します。


村中は、これが悪いことだとか企業の身勝手だとかは、ぜんぜん思いません。「お客様第一主義」とは裏を返せば「お客様でない人は第二にします」という意味です。企業が、「お客に何かを売って存続している団体」である以上、たくさん買ってくれる人を優先するのは当然だといえるでしょう。


一方、政治家という職業にとって重要なもの、「売上げに相当するもの」は何かといえば、これは「得票」になります。「お得意様」に相当するのは「支持者」。「浮動票」は「見込み客」となり、「選挙に行かない人」は「客でない人」となり、ケアの対象外となります。


政治家は、落選したらただの人ですから、票は何が何でも得なければいけません。建前上は「日本のため」「国民のため」といっても、実際のところは「自分に票を入れてくれる人」のために動くことになるでしょう。


これは企業がCMなどでは「よりよい社会のために」と言ったとしても、実際は「売上げを上げてくれるお客のために」動くのと同じ構造です。


現代の日本では、大きくは、老人は選挙に行きますが、若者は選挙に行きません。そうであれば、政治家が、老人に有利な政策を重視し、若者向けには何もしないのも当然のことになります。若者は、どうせ選挙に来ないのだから、そのために東奔西走して政策を作るなど徒労です。自分の票に関係ない人のために粉骨砕身できる聖人君子は、おそらくいないでしょう。


となると、選挙で投票することのとりあえずの意義は、「政治家に、自分は客だと認知させること」となるでしょう。白票であっても、「次は自分に投票してくれるかもしれない人」ぐらいには思われます。

政党の選択基準は、「消去法」しかないような気がします。自分の考えや利害にあつらえたようにぴったりの政党などあるはずがありません。そうであれば「より悪くないところはどこか」という風に考えて、消去法で、投票先を決めるしかないように思います。


とりあえず「客」にならないと相手は動いてくれません。選挙に行くのは面倒ですが、「自分を客として認知させる行動」としては、やはり投票を行うほかないように思います。

 

 

ヘルタースケルター、よかったです

蜷川実花監督 沢尻エリカ主演の映画、ヘルター・スケルターは、「目で料理を食べるような映画」でした。

料理では、様々な食材が、巧みに調理、混合され、それが皿の上に艶やかに盛りつけられていますが、口に入れれば全部がグチャグチャになり、だけどそのとき、脳には「おいしい!」という信号が発生します。ヘルタースケルターも同じように、沢尻エリカというメイン食材と、脇役の男優たち、女優たちというサブ食材が、蜷川実花の極彩色のメソッドで調理され、その映像を目で取り込みセリフを耳に入れ込み、脳の中でグチャグチャに混ぜ合わせて、堪能したところへ、上野耕路の音楽が冷たいワインのようにクールダウンするという、とても目と耳においしい映画でした。

では、この映画の良かったところについて、様々なところから書いていきたいと思います。

*** 1: チーム沢尻

「別に…」発言で、一躍、お騒がせ女優となった、沢尻エリカも、半年ぐらい前は何となく話題に上らなくなり、つい最近まで、やや忘れられかけていましたが、そんな腐りかけの果物のいちばん美味しい時機に、絶好のタイミングで公開されたのが、今回の映画です。

ヘルタースケルターは、上映時間の四分の三ぐらいが、沢尻エリカ演ずる主人公りりこが映っています。このりりこは、出演時間の間、悪いことか自分勝手なことか、どちらかしかしませんが、そのアンフェアでダーティなところをビューティで帳消しにするという役柄なので、映像の沢尻エリカは「スクリーンを制圧するほどの華やかな美貌がないといけません(蜷川監督・談)」。そして、その狙いは十分に実現できていたと思います。沢尻エリカの見た目は、プロポーション、肌ツヤ、髪のツヤなど、すべてがさすがでした。

かつて北島康介が金メダルを取ったときに、「自分はチーム北島の泳ぎ担当です」とコメントしていました。金メダルの泳ぎが実現できたのは、コーチやトレーナーなど全員の献身があったからこそで、自分はチームみんなの力を、泳ぎという形で具現化したにすぎないと言っているのです。

今回のヘルタースケルターでも、沢尻エリカの華やかな外見は、本人の努力だけでなく、衣装、照明、メークなどの「チーム沢尻」みんなの賜だと思いました。個人的に、ほほーと思ったのはヘアメークです。今回、沢尻エリカは全編にわたりストレートロングですが、その長い髪の毛が、場面ごとに色やツヤを変えて、髪が芝居をするのです。

基本は頭頂に天使の輪をつけた、つややかで張りのあるロングヘアーです。この映画の撮影期間がどれぐらいであったかしりませんし、このつややかさをキープし続けるのは大変であったろうと、男の村中でさえ感じました。ヘアメークさんに拍手です。

また、りりこが悪いことをする時は、真夜中のカラスもかくやと思わせる大盛りの黒髪に変わります。雨の中で失意に泣き崩れるときは、ロングヘアーが、汚い海草のように、べとべとと情けなく肌にまつわりつき、自らを鏡に写して整形の崩れに怯えるときは、パサパサの乾燥髪になります。ラスト近くで、運命を受け入れる決意をしたときは、亜麻色の暖かみのある色に変わっていました。

これに限らず、メーク、服装、装身具、部屋の調度、照明など、蜷川実花監督が、2時間全編にわたり自らの色彩技術と映像感覚のすべてを注ぎこんで、沢尻エリカという素材をひたすらいとおしみ、ひたすら手をかけていることが、よく伝わりました。こんなに手をかけてもらって、かまってもらって、これはもしかしたら、沢尻エリカの人生で、もっとも多く愛された経験なのかもしれません。ひとつの女冥利ではないでしょうか。

ヘルタースケルターは情交シーンの多い映画ですが、もっともぐったりするのは、蜷川監督が沢尻エリカをいじくりまくる映像そのものであったと思います。

(※ クリックすると音声が出ます)

*** 2: 精も根も尽き果てた?沢尻エリカ

プレミアを体調不良で欠席。ところが同じ日に金髪ショートカットで遊び歩いていたところをパパラッチされ、相変わらずのお騒がせぶりを保っている沢尻エリカは、初日の舞台挨拶には、ヒマワリ柄のワンピースに金髪ショートカットで登場しましたが、村中は、見た瞬間、「あちゃ、映画に比べると、劣化してないか? 少し顔、むくんでるんでないの?」と思いました。瀬川 瑛子かと思った。

しかし、それも無理なからぬことです。撮影中、プロポーションとお肌のコンディションを保つのは本当に大変だったと思います。撮影が終わり、緊張が解けて、もしかしたらポテチの一気食いぐらいしているかもしれません。その影響を隠すための、金髪&ヒマワリというビジュアル戦略だったのかもしれません。村中は責める気にはなれず、むしろお疲れ様を言いたいところです。映画は良かったわけですから。

***3: いつもキョドってて、今イチ苦手だった寺島しのぶが今回は当たり役!

ヘルタースケルターでりりこに翻弄されるマネージャー役を演じていた寺島しのぶは、近年は若松孝二監督「キャタピラー」に主演しベルリン映画祭で最優秀女優賞を受賞するなど、名優として名高いのですが、村中は、この人がどうもずっと苦手でした。

おそらく大変な努力家であり、きっと演技も上手いのだと思いますが、主演女優賞を取った「キャタピラー」の演技が、戦争で手足を失った夫にまたがって、愛憎ないませの感情の高ぶりの中で、これ食えと夫の口と顔に生卵をぶちまけるという演技だそうで、予告編でちょこっと見ましたが、いやー、これ映画館では見たくないわ~と思いました。

寺島しのぶの母親は、同じく女優の富司純子(東映時代は藤純子)です。しかし、緋牡丹博徒 など女ヤクザものに主演した藤純子が、演技の巧拙はさておき、「お命頂戴いたします」の啖呵もそれは堂々としているのに対し、娘の寺島しのぶの方は、どうもなんだか目が泳ぐというか、今ひとつ堂々としていないというか、今風の言い方で言えば、キョドっているので、観客として見ていると、何かイライラしてしまうのですね。

ところがヘルタースケルターで蜷川監督が寺島しのぶに与えた役は、りりこ(沢尻エリカ)に、イライラされ、八つ当たりされ、ナメられ、翻弄され、人間オモチャにされる中年マネージャーの役で、これは寺島しのぶの、「堂々としていないところ」「キョドっているところ」がかえって役にピッタリであり、まさしく当たり役でした。

映画ヘルタースケルターは、筋立て、設定はほぼ原作の漫画を踏襲していますが、大きく変わっているのが、この女性マネージャーの年齢です。原作のマネージャーはりりこと同年代の20代の女性でしたが、映画では35歳の中年女性。これは映画を見ていて、その手があったかと感心しました。

35歳のいい大人が20いくつの小娘に罵倒され操作され翻弄されることで、りりここと沢尻エリカの凶悪さと美しさがさらに引き立つのです。さすが蜷川実花、女の配置にはものすごい才能です。おそれいりました。

***4: 大の苦手の桃井かおりも当たり役だった!

寺島しのぶと同じく桃井かおりも、村中には永らく苦手な女優でした。この人は、「疑惑(1982年 野村芳太郎監督)」でも「ええじゃないか(1981年、今村昌平監督)」でも、男を狂わす悪女役で出演することが多いのですが、率直に言って、大美女ということもなく、映画を観ていても、わざわざ桃井かおりに狂わされなくてもいいじゃないかと思えてしまいます。演技力も特に高いとも思えず、どの映画でもドラマでもCMでも、いつも金太郎飴的に桃井かおりのあのしゃべり方、あのイントネーション。個性といえば個性なのでしょうが、村中はどうもあのしゃべり方が苦手で、見ていると、つい、「おい、もっと真面目にやれよ」、「少しは人の話を聞けよ」と説教くさい苦言を呈したくなります。

村中としては、これまで、桃井かおりが出ていることでさらに良くなっている映画というのを今まで見たことがありません。今村昌平監督は著書の中で、「ええじゃないかに、桃井かおりを使ったのはミスキャストだった」と明言していました。

だがしかし、今回のヘルタースケルターでは、桃井かおりがとんでもない当たり役だったのです。桃井かおりが出ていることで映画がすごく良くなっていました。

この映画で桃井かおりは、醜女だったりりこに全身整形をさせて美女に生まれ変わらせた芸能プロダクションのやり手女社長として登場します。桃井かおりの、あのふざけた感じ、あのインチキくさい感じが、虚飾と計算だけに生きる芸能プロダクションの女社長にぴったりでした。映画全編にわたり、桃井かおりは、話すこと全てが邪悪で、その場しのぎで、誠実さのかけらもありません。

映画の終盤で、芸能界からも干され、深く傷ついたりりこ(沢尻エリカ)が、「ねえ、ママ、あたしって赤字だった?」と胸の奥から絞り出すような泣きそうな声で問いかけたのに対し、「そりゃ赤字よお~」とあの桃井かおりのしゃべりであっさり返事するシーンの邪悪さと言ったらありませんでした。原作では、この女社長はも少し太ったおばさんであり、これも映画で設定が変わっているところのひとつです。蜷川監督、女の配役センスすごい。

*** 5: マッドサイエンテスト女医に、原田美枝子を当てるとは!

醜女だったりりこをスーパー美女に生まれ変わらせた美容整形の狂気の名医を演じているのは原田美枝子でした。原田美枝子といえば、個人的には、黒澤明監督の「乱(1985年)」での楓の方役が印象に強いです。正統派の美人女優だと思います。 この女医は原作では60過ぎの、地味なひっつめ白髪のおばあさんでした。時空を越えてキャスティングして良いなら岸田今日子とかが適役かなと勝手に思っていましたが、そこに原田美枝子をはめこむとはやられました。岸田今日子ではベタすぎ、安易すぎでした。原田美枝子の方が絶対いいです。おそれいりました。この女医はいい人に見えても悪い人に見えてもいけない役ですが、それを唇の引き締め方で表現しているのが、なるほどーと思いました。

*** 6:妙に納得させられた水原希子

人工美女、沢尻エリカの地位を脅かす、天然美少女、吉川こずえ役を演じていたのが、水原希子という女優(ファッションモデル)でした。村中はこの人のこと知らずに、この映画で始めて見ました。映画の中では、「いるのよねぇ、こういう生まれつきキレイって子が」と紹介されていましたが、正直、村中としては、「存在感はあるなあ。でも、そんなに大美女かなあ」と思ってしまいましたが、これは男
目線と女性目線の違いなのかもしれません。水原希子はSPAなど男性誌のグラビアに出る感じではなく、「女性目線から見た、ナチュラルでキレイな女の子」ということになるのでしょう(ちなみに村中的には、「いるのよねぇ、こういう生まれつきキレイって子が」と思うのは、石原さとみとかです)

でも、映画の中でのバランスという点では、たしかに水原希子は、見た目も、雰囲気も、沢尻エリカとまったくダブっていません。そして、この吉川こずえ役は、見る観客に「この子はぜったい整形していない」と確信を持たせるルックスでなければいけません。そう考えると、なるほど水原希子だなと、妙に納得させられました。

***7: 映画に軽さを与えていた上野耕路の音楽

この映画は、映像は濃いし、ストーリーも陰惨なので、どこかで「軽さ」を確保しなければいけません。原作マンガでは、それは岡崎京子の白く乾いた絵柄でしたが、ぐっしょりした極彩色の映像が持ち味の蜷川監督は、映画の中で、どこで軽さを与えるのだろうかと注目しながら、映画を観ましたが、それは上野耕路の音楽でした。上野耕路はクラシックとモダーンミュージックと大陸歌謡をミックスさせた優雅で軽妙な音楽を作る作曲家です。村中的には、戸川純と組んでいたユニット、「ゲルニカ」が印象に残っています。ヘルタースケルターでは、ぐったりする映像世界を、軽快で優雅な音楽でクールダウンしていました。刺激的なカットが次々移り変わるシーンに合わせて、ソビエトの大作曲家、ショスタコービッチ風(というか、まんま)の音楽が重なっていたところが特に印象に残りました。この映画に上野耕路を起用したのは、ひそかなファインプレーだと思います。   (※ クリックすると音声が出ます)

***8: 脚本は堅実だったと思う。

この映画を観る前の一番の不安要因が脚本でしたが、原作のツボを押さえ、しかし原作に飲み込まれすぎず、原作のセリフの順番を入れ替えたり、一部のシーンや登場人物を省略したり、映画が映画として成り立てるよう、脚本の金子ありさは、堅実に仕事したと思います。一部には、ラスト20分が冗長すぎるという声もありますが、まあ、原作もそんなかんじだからなあ。現実から幻想へとブリッジをかける部分の映像表現は、まあ、とりあえずああやるのが手堅いよなあと思いました。あれをスッキリさせるには、原作を離れて、別のストーリーを考えなければいけなくなります。そこまで求めるのは酷ではないかと。 以上、映画ヘルタースケルターの良かったと思うところを書きました。次回は、「気になったところを書こうと思います。

P.S: 今、このブログを書きながら、アメリカ映画「プレシャス」のテレビ放映を横目で見てますが、なんだか「逆・ヘルタースケルター」みたいな世界です。

 

ヘルタースケルター、ちょっと不安 (脚本が)

 先日、「いち映画ファンとして沢尻エリカ主演のヘルタースケルターに期待!」というブログを書きました。http://blog.customerwise.net/?eid=1233741 芸能界トップスターだけど全身整形の人工美女が真っ逆さまに転落していくというストーリーなら、沢尻エリカは当たり役。当たり役はすべてを凌駕する。だから期待! (ただし、脚本さえ良ければ、という条件付きですが…)ということを書きました。

いよいよ、明後日公開と言うことで雑誌で特集が組まれたり、テレビで予告編が流れたりしてますが、それを見る限りでは、うーん、もしかして、この映画良くないかもな~という気もしてきました。特に予告編やテレビスポットを見る限り、何か、脚本が良くなさそうな気がするのです。

どういう風に良くないのか。もしかして、ストーリーから台詞回しから原作をほぼ、「まんま」で使っている可能性が高いな~という気がするのです。もしそうだったらマズイ。マンガと映画は成り立ちが違うので、それに合わせて脚本も変えないと。

監督の写真家、蜷川美花も、原作漫画家 岡崎京子も、女子系、ポップカルチャー系というところでは共通点がありますが、しかし、蜷川美佳がどぎつい色彩を好む極彩色写真家であるのに対し、岡崎京子は、墨ベタやスクリーントーンをあまり使わないモノトーンの乾いた画面を基調にしています。原作、ヘルタースケルターは悲惨なお話ですが、不思議に重くありません。ストーリーの最後は軽く浮遊していくようですらあります。それを支えているのが、岡崎京子の乾いた軽い絵柄だと思うのです。

一方、蜷川美佳は、こってりしっとり水分たっぷりな絵柄なので、脚本を岡崎京子の原作そのままにすると、不整合になるような気がします。ここはひとつ、自分の画像感覚に合わせた脚本になっていてほしい。岡崎京子の原作どおりに作るのではなく、ぜひ映画としての、追加、修正、削除を加えていてほしいと期待するわけです。

現代の映画監督で、「当たり役の起用が上手だな~」と思うのが中島哲也監督です。「下妻物語」では、田舎のロココひとすじ少女に深田恭子を、特攻服のヤンキー少女には土屋アンナを当てました。いずれも、椿三十郎が三船俊郎以外にあり得ないとの同じぐらいに当たり役だったと思います。2010年に方が最大のヒットとなった「告白」では、冷たい復讐に燃える女教師に松たか子を起用しましたが、これも当たり役だった。現代にも演技派女優は、満島ひかりや宮崎あおいなどいろいろいますが、やっぱり、告白は松たか子の方がいい。なぜかというと、まず松たか子は「かわいげ」がすごく少ない人です。それがこの女教師には適していた。満島ひかりや宮崎あおいが演じても何とかなるかもしれませんが、どうしても「かわいげ」が漏れ出ていたでしょうkら。次に、松たか子は、演技派といわれていますが、あれでなかなか体の動きがカタイ。動きはそんなに速くない。村中は、演技が上手い女優は山田五十鈴でも田中絹代でも例外なく動きが速くて柔らかいと思うのですが、松たか子は、けっこう体がカタイ。でも、「告白」の女教師にはそれがかえって合っていました。中島監督、さすがだなあ。配役がうまいなあと。

ですが、しかし、「当たり役は全てを凌駕する」というのは、その前提に、「ただし脚本がしっかりしていれば」という条件がつきます。中島哲也監督の映画は、「下妻物語」も「告白」も、原作小説の映画化でした。いずれの作品も原作の流れにほぼ忠実ですが、要所要所で修正、追加をしています。その修正、追加は、「小説だったら、そこ省略してもいいかもしれないけど、映画だと、ちゃんと説明しておかないと観客を引っ張れないから」という意図のもので、個人的には、下妻物語の冒頭で、深田恭子が八百屋の軽トラに吹っ飛ばされて宙を舞うという、原作にはないシーンから始めたところは、なるほどなあと大変勉強になりました。それにより、映画全体に、「謎かけ」がなされ、かつ「話の地図」も示されていたからです。中島監督は、凝った映像が注目されがちですが、しかし、その凝った映像がキワモノにならないのは、脚本に負うところが大きいと思います。

(※ 先般、事例の文章の黄金構成というエントリをアップしました。村中は、事例の文章構成では、中島哲也や黒澤明など、日本映画の脚本も書く監督の技を、おそれながら、だいぶ参考にしました)

たしか今村昌平だったか、「映画は脚本7割、配役2割、演出1割」と言っていました。 現在、ヘルタースケルターは沢尻エリカがおっぱいを出していると言うことで話題になっています。それはそれで結構なことかとは思いますが、脚本がしっかりしていないと単なるポルノになってしまいます。

ヘルタースケルターは、村中、前売りを買いました。連休中に見に行こうと思います。面白いと良いんだけでなあ。

山田五十鈴なら

 大女優、山田五十鈴さんがついに今日、95歳でお亡くなりになりました。女優としての功績は、今日のテレビニュースなどで放映するだろうから、村中は別のことをここで書きたいと思います。

それは、「素人にも分かるほど、もんのすごい三味線の弾き手としての五十鈴さんです」 もう、この写真だけですごいですよね(「鶴八鶴次郎」より)

山田五十鈴は大正6年(1917年)生まれなので、美貌が最も盛りであった18才~28才の10年間が1935年~1945年、つまりほぼ戦争中に重なっています。映画女優としては、昭和に入ってから黒澤明の「蜘蛛の巣城」や成瀬巳喜男の「流れる」で見せた、芸の化身のような演技が有名ですが、卵に目鼻を載せたような、ザ・日本美人としての五十鈴さんが見られるのは、あまり知られていない戦前、戦中の作品なのです。

村中が特にお勧めしたいのが、戦中に撮影された「鶴八鶴次郎(昭和13年)」、「芝居道(昭和19年)」、「歌行燈(昭和18年)」の、成瀬巳喜男監督の芸道三部作です。 山田五十鈴は、母が大阪、北新地の売れっ子芸者で、数え年6歳から常磐津、長唄、清元、踊りを習い、何と10歳で清元の名取となったほどの芸事の天才少女でした。映画作品でも、「鶴八鶴次郎」では三味線と長唄を、「歌行燈」では舞を、「芝居道」では女義太夫を披露していますが、いずれもお見事すばらしい参りましたという他ないすばらしい芸でした。

村中は別に芸事に目や耳が肥えているわけでもありませんが、そんな素人でも分かるほど、明らかにすごいのです。

(「鶴八鶴次郎」 4:30あたりから長唄と三味線)

これら芸道三部作はいまだDVD化されておらず、映画館で観るほかありません。今回の逝去を機に映画館では、山田五十鈴の旧作映画が上映されるでしょう。

晩年には、「人生はひとすじがよし寒椿」という句を詠んだほどに芸道にひたむきに生きた山田五十鈴さんを弔うには、出演なさった映画を見に行くのが何よりではないでしょうか。

おそらく神保町シアターと文芸座のどちらか(あるいは両方)で追悼上映があると予測しています。

いち映画ファンとして、沢尻エリカ主演「ヘルター・スケルター」には期待せざるをえません


ある社会派の監督の映画で、純真な少年をつぎつぎ誘拐しては暴行・惨殺し、逮捕された後も反省の色を見せず、法廷では被害者の遺族に暴言を吐き続け、もちろん死刑判決を受け、最後は首つりで死ぬという脇役がいました。演じている俳優は、それは見事な演技力で、顔を布で覆われ、首を吊られ、痙攣して死んでいくシーンなどとても演技とは思えない迫力でした。

その迫真の演技を見ながら、「こういう変質犯罪者の役って、どうやって役作りするのだろう」と素朴な疑問を感じました。村中は、演技技術についての知識も経験もありませんが、大きくは、役柄の気持ちを理解し、それになりきることで役に入っていくのでしょう。ということは変質犯罪者の役を演じる場合は、「殺人、楽しい!」、「反省してません」、「国家に殺されていくオレを、神様、助けて!」という勝手な気持ちを自分の中から作り、それを反芻、反復しながら、役になりきっていくのでしょうか。あくまで外野の考えですが、恋愛物語のヒロインや冒険物語の主人公を演じるのに比べ、あまり楽しそうではありません。そうした犯罪者を演じる俳優は、おそらく「良い演技ができる事の純粋で孤独な喜び」を感じているのか、あるいは「それで映画が良くなるのなら、自分はそのためにベストを尽くす」という職人精神を演技の原動力にしているのかもしれません。

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もうすぐ映画「ヘルタースケルター」が公開されます。原作は岡崎京子の同名のマンガで、主人公りりこは、誰もがうらやむ芸能界のトップスターですが、「もとのままのもんは、骨と目ん玉と爪と髪と、耳とアソコぐらい」という、全身整形の人工美女です。もとは誰にもふりむかれない醜女だったりりこが、もって生まれた素晴らしい骨格を生かし、「生まれたときに決定されたもの? そんなの踏みつぶしてやったわよ」と、つらい整形手術を経て、誰もがうらやむスーパー美女に生まれ変わり、だけどそれからまっさかさまに転落していく様を300頁にわたって描き抜いた原作は、美しくも陰惨なお話でした。

そのりりこを演じるのが、あの沢尻エリカです。

映画や演劇では、「当たり役はすべてを凌駕する」と言われます。その役にぴったりの俳優を起用すれば、それ以外がぜんぶダメでも、関係なく映画は良くなるというのです。であるならば、ヘルタースケルターりりこの配役として、それ以外ぜったいにありえないという女優、沢尻エリカを得た、映画ヘルタースケルターは、もしかしたら大傑作になるのかもしれません。

沢尻エリカは、ヘルタースケルターの試写会挨拶をすっぽかしました。5年ぶりの主演映画なのに、PR活動もすべて休止。医師の判断によると「一定期間の静養が必要」とのことで、7月5日に予定されていた本作のジャパン・プレミアへの出席や、その他の芸能活動についても、「今後の経過を見ながら判断するとのことです。

いま、沢尻さんはどんな精神状態なのでしょうか。

「あたしはもうすぐ使いものにならなくなる。もっと長くもつかと思ってたけど……意外と早かったなあ。あたしが売り物にならなくなったら?ママは? あたしを捨てるでしょう。ママだけじゃないわ。みんな、今ちやほやする人だって、離れてゆくわ。そしたら今のくらしだって…全部おじゃんのパーッてわけ? う、う、う、うふ、ふふ、ふふふ、アッハハハァの大笑い!! んなことさせるかバーロー!!あたしは絶対に幸せになってやる。じゃなかったらみんな一蓮托生で地獄行きよ。ちくしょう、さもなくば犬のようにくたばってやる」

と、このセリフは村中の創作ではなく、マンガ原作のりりこのセリフをそっくり抜粋したものですが、これは、今この瞬間に、高級マンションの一室で沢尻エリカが、ひざを抱え、震えながら語っているモノローグだとしても、そのままあてはまるのではないでしょうか。 何が言いたいのかというと、この映画では沢尻エリカは、役作りして役にのめりこめばのめりこむほど、どんどん精神を追いつめられてしまうのではないかと思ったのです。

原作ヘルタースケルターのりりこと、現実の沢尻エリカはあまりにもリンクしてしまいました。そもそも、もっとも下世話な話として、現実の沢尻エリカが整形しているのかどうかは知りませんが、もしやと思わせる部分はあるのであります。もう映画の役と現実の自分の区別がつきません。これが完全な職業俳優なら虚構と自分を切り離すことができるかもしれませんが、俳優というよりはタレントの沢尻エリカにそんな器用なことができるとも思えません。 監督の蜷川実花も、「あまりに出来すぎな筋書きに、物語が現実に追いつかれそうな気がしてなりません」と言い、「現場での彼女はりりこそのものでした。『りりこの役がなかなか抜けない』と言っていた彼女に静養が必要なのは、必然のような気がします」と沢尻エリカを気遣っています。

「だけどもしこの映画が当たらなかったら? 客席がガラガラだったら、あたしはどうなるの?」。沢尻エリカはそんな不安のまっただなかなのかもしれません。芸能界トップスターだけど実は全身整形。これは演じていて相当にストレスが溜まる役のはずです。役作りすればするほど精神が追い込まれていきそうです。考えようによっては、芸能人にとってこれほどの汚れ役もありません。これなら娼婦や連続殺人犯を演じる方が、まだ現実と虚構がハッキリ違うので気がラクなのではないでしょうか。

この映画が、面白い映画なのかどうか、まだ見ていないのでわかりません。もしかすると、フォトグラファー蜷川美花が指揮した極彩色の映像こそ美しいものの、脚本がまるでダメで、沢尻エリカはただギャーギャーさわいでいるだけという、最悪のパターンかもしれません。

それでも村中はこの映画が楽しみです。俳優の現実生活と、映画の内容がこれほど鮮やかに重なり合う例は滅多にありません。これでもし脚本が良いならば、とても素晴らしい映画体験になるでしょう。つい期待してしまいます。

この映画のキャッチコピーは「見たいものを見せてあげる」でした。その言葉に応え、いち観客として、この見せ物を、映画館でゆったり鑑賞したいと思います。

映画、ヘルタースケルターは7月14日公開です ※ 公式サイト http://hs-movie.com/index.html

ありがたい世界

若い頃と比べ考え方が変わったことのひとつに、「日本には、天皇陛下がいて良かったなあ」と思うようになったことです。

めまぐるしく変わる政治や経済とは別のところに、国のお父さん、お母さんがいてくれるのはありがたいことです。

芸術文化(スポーツ)でも、最近は「ありがたい人」が好きになります。そのうちの一人が、フィギュアスケート選手、浅田真央さんです。何か、浅田さんの演技を見るたび、「銀盤の上を観音様が滑っている!」という気がするのです。ありがたいなあ。

村中は、ときどきバレエを観に行くのですが、あれも有り難い芸術です。あれほどの美男美女が、あれほどにストイックな懸命の努力をして、優美・華麗・絢爛な世界を舞台に展開してくれるわけですから。

今日は、ニーナ・アナニアシヴィリさんが率いるグルジア国立バレエ団の来日公演を見に行きました。いやー、今日は、すごくよかったなあ。

神が与えたすばらしい手足の長さと、超絶のテクニックで、世界最高のバレリーナとも名高いニーナ・アナニアシヴィリは、日本で特に人気が高く、今日も東京文化会館は満員でした。

村中は15年ぐらい前に、深夜に家でのたーとしている時に、偶然テレビでローザンヌ国際バレエコンクールを見て、バレエっていいじゃん!と目覚め、そしていろいろバレエを見るようになりましたが、いちばん好きなのは、やはりニーナさんです。

以来、かれこれ15年ぐらい、ニーナさんの公演を見続けておりますが、ニーナさんも1963年生まれなのでもう49歳、今回は「日本ではこれで見納め。最後の白鳥の湖!」というふれこみでした。

49歳で白鳥の湖。

これが果たして成り立つのかと疑問視するのが普通の感覚かと思いますが、

村中も、若干の期待と不安を持ちながら会場に向かいましたが、 いやー、成り立つどころではない、とっても良かったなあ。すばらしかったなあ、すてきだなあ、本当にありがたいことだなあとうるうるしました。

そう思っていたのは村中だけではないようでした。見せ場の32回転フェッテが決まった後は、客席が、「うわー、これぞニーナだー」と割れんばかりの大拍手。その後のピケターンも、往年通りの動きの速さ。客席のあちこちからブラボーの歓声が上がります。今日はめずらしく女性のブラボーが多かった。女性はあんまり会場で大声とか挙げませんが、今日のニーナさんはそれだけ感動ものだったのです。

終幕の後は、会場全員が本気のスタンディングオベーション。拍手に応えるニーナさんもうるうるしておりました。

ニーナアナニアシヴィリはもともとロシア ボリショイバレエ団のプリンシパルでしたが、2008年のロシア・グルジア戦争が影響したのかどうか、ボリショイを退団。その後、グルジア政府から、「祖国グルジアのバレエ団を立て直してほしい」と乞われ、看板ダンサー兼芸術監督として就任。今回は、グルジアバレエ団としては3回目の来日公演ですが、初回公演の時は、ニーナさんはともかく、それ以外のコール・ド(群舞)のみなさんが、少々、田舎ぽかったのですが、今回は見事に白鳥の湖になっていました。芸術監督ニーナさんの懸命の指導が実ったようです。

実はニーナさんは、グルジア外務大臣の奥様です。いいですなあ。こんなありがたい人が外務大臣夫人で。

大満足で会場を後にしながら、「これでグルジアも安泰だな」とわけのわからない感想を持ってしまった村中でした。

ニーナアナニアシヴィリとグルジア国立バレエ団の全国縦断公演は7月末まで一ヶ月間。興味のある人はぜひ見に行きましょう。すばらしいですよ!

http://www.japanarts.co.jp/html/2012/ballet/ballet_of_georgia/index.htm

※ こちらニーナアナニアシヴィリの若い頃の映像(ドンキホーテ)です。

 

 

猛烈に面白い、映画 「ロボット」

 インド映画最高の制作費37億円をかけ、全アジアで興行収入100億円を突破する大ヒット映画、「ロボット」を渋谷TOEIに見に行きましたが、聞きしに優るおもしろさでした。

ストーリーは、天才科学者が作り上げた、何でもできるすごい人間型ロボットが博士の恋人に適わぬ恋をしてしまい、そして大暴走する…というものですが、全編にわたり、アクションとロマンスと踊りが交代に登場する、とても楽しいエンターテイメント映画になっています。

では、どこが良かったのか、三つ書いてみたいと思います。

良かったところ1. 「人間がCGに勝っている」

CGなのにおもしろい映画は初めてでした。

最近は、精巧なCGがたいへん発達してきて、ハリウッド映画でも、町が空へめくれ上がったり、最終戦争や大災害の様子がリアルに描かれたりしていますが、正直、ぜんぜん面白くありません。面白くない理由は、おそらくCG技術が作り手のアイディアの貧困さを穴埋めしているように見えるからだと思います。人間がCGに負けているのです。

一方、このロボットの後半アクションシーンでロボット軍団が巨大組み体操モードになるところのCGは、すんごい楽しかったです。人間の発想力の方が、CG技術を大幅に上回っていました。

良かったところ2.「ゴージャスな、実写版 峰不二子」

この映画のヒロインは、93年ミス・ワールドにも輝いたインド映画の美人女優ナンバーワン、アイシュワリヤーラーイですが、そのアイシュが見事な美貌とプロポーションで、主人公とロボットの二人を翻弄していました。美貌とプロポーションで男達を翻弄するといえば、アニメ、ルパン三世の峰不二子が有名なキャラクターですが、今回の華やかなアイシュワリヤーは、そんなヒロインの実写版であるかのように思えました。

ところで「実写版 峰不二子」が成り立つには、演じる女優に美貌とプロポーションが備わっているだけでは不十分です。まわりの設定に適度な荒唐無稽さが必要であり、またその女優を追いかける主演男優にもスーパーパワーが必要です。そのパワーが場を歪め、映画全体が現実から浮遊させないかぎり、いくらキレイでグラマーな女優が出ていても、単なる「キレイでグラマーな人」にしか見えないからです。

良かったところ3.「ロボットなのにギトギトの、スーパースターラジニカーント」 というわけで、今回、アイシュワリヤーラーイを、実写版 峰不二子たらしめていたのは、本人の魅力だけでなく、主演男優のラジニカーントのギトギトさが重要だっだと思います。 映画の前半、科学者の恋人として出てくるアイシュワリヤーは親しみやすい女子大生ですが、後半、悪のロボットに横恋慕され、とらわれのお姫様となってからのアイシュワリヤーは、服装も目つきも振る舞いも妖艶になり、どんどん峰不二子化してきます。美女が美女たるには野獣が必要なのだと改めて分かりました。 今回は、天才科学者と、その科学者が作った人間型ロボットの一人二役ですが、博士の方がおとなしめのインテリであるのに対し、ロボットの方は、機械なのに脂ぎっており絶倫的であり変態的であり、そのロボットが自らを複製して帝国を作り、アイシュワリヤーラーイをさらって閉じこめて結婚を迫るあたりで、映画は現実から完全に足を離していました。ラジニカーントとアイシュワリヤー、この二人が揃えば、映画がCG負けするはずもありません。インドでは想像を絶する大人気を誇る、このラジニカーント、何と今年で62歳とのことでした。

映画「ロボット」は渋谷TOEIで公開中。インド映画ならではのダンスシーンが満載の完全版はあと一週間しか公開していません。みなさん、ぜひ、見に行きましょう。 ホームページはこちら(※ クリックすると音声が出ます)

http://robot-movie.com/

 

鏡はなぜ左右逆になるのに、上下は逆にならないのか?

鏡は左右が逆になっても上下は逆にならないといわれています。

本当にそうでしょうか。地面に大きな鏡を置いて、そこに立って鏡を見下ろせば、上下は逆になります(by 森博嗣)

そもそも、鏡で左右が逆になるというのも、本当なのでしょうか?

A4の紙に、大きく「あ」という字を書いて、鏡に映すと、左右が逆の鏡文字になります。

ではA4大のガラス板に、黒ペンキで「あ」と書いて、そのガラスを鏡に向けてみましょう。ここで鏡ではなく、ガラスを見れば、透かして見えるのは左右が逆の「あ」。鏡に写っているのも、同じく鏡文字の「あ」。 しかし、目に見えるものと、鏡に映っているものが、どちらも同じ形であるなら、不思議なことは何もありません。左右が逆になどなっていないと考えるべきです。だって、どちらも同じ形なのだから。

などと、若干、ケムに巻くようなことを書いてしまいました。 村中としては、この手の命題を考えるときの基本姿勢は、 「ふしぎなことは起きていない」 でよいと考えています。 鏡というのは、「表面に当たった光が100%反射される板」なので、鏡面と垂直な軸が反転します。つまり鏡に向かい合った場合は、前後が反転します。ここに不思議なことは何もない。この考え方で良いと思います。 昔は、「四次元の世界」とか、不思議だ!わからん!と思っていました。しかし、最近は、「位置を特定するのに、変数が三つ要るのが三次元。四つ要るのが四次元」と見なしています。こう考えると、九次元とか、32次元とかも特に不思議には思わなくなります。 「ふしぎなことは起きていない」 つまらない考え方でしょうか。いや、やっぱり、これでいいような気がします。  

 

「忙しい」、「モテる」、「かまってほしい」 とは何か?

「忙しいとは心を亡くすと書きます」という解釈がありますが、これはもちろん俗説、ダジャレの類です。「いそがしい」とは、「いそぐ(急ぐ)」の形容詞形です。「たのむ→たのもしい」、「さわぐ→さわがしい」、「ねたむ→ねたましい」と同じ形式です。この語源構造は、英語でも同じで、ビジネス(business)は、忙しい(busy)の名詞形です。

businessとbusyが同根というのは、見てすぐに分かりますが、「忙しい」と「急ぐ」が同系統の言葉とはなかなか気づきにくい。これは、日本語を漢字で表記するときに、もとのひらがなが隠れてしまうからです。またひらがなにしても、「いそがしい」と「いそぐ」と並べても、同じ字は「いそ」だけなので、瞬間的に同系統とは気づきにくい。これは、ひらがなが一文字で、子音と母音の両方を表しているからです。もし、アルファベット表記で、Isog ashii、Isog uと書けば、Isogという語根が同じことが分かりよいので、同根ということに気づきやすくなります。

さて、「モテる」という言葉があります。これの語根は、「持つ→持てる」だろうと推測しています。持てるは、持つの可能型を表すように見えますが、その根本は「自然発生」です。日本語では、ごく自然に発生することを上級価値と見なす傾向があります。「(異性を)持つ」ことが、自然に発生し、自然に出来ている状態、それを「モテる」というのであろうと。動詞を自然発生に変換すると褒め言葉になる構造は「行く→イケてる(→イケメン)」にも見受けられます。

「かまってほしい」という言葉があります。この「かまう」は「構える」と同類の言葉です。ある姿勢を作ることを表す「構える」が、なぜ関わりを持つこと示す「かまう」と同類なのか。それは「かまう」の語源が、「噛む」だからです。「噛み・合う」が縮まって、「かまう」になり、そこから「構える」が発生したのです。 「私にかまってほしい」を語源的に分解するならば「私に咬み合って欲しい」になるのです。「かまってほしい」はどこか寂しさのある言葉です。見栄も外聞もなく、何の正当性も理屈もなく、ただただ自分に関わってほしい切実な気持。その切実さが、「咬み合ってほしい」という語源に見えるような気がします。

※参考資料:岩波古語辞典(大野晋)

 

 

魚の一生

 すべての動物は、動物か植物かのどちらかを食べています。ライオンはシマウマを食べ、シマウマは草を食い、マグロは小魚を食べ、蝶は花粉を、セミやクワガタは樹液をすすり、マイマイカブリはカタツムリを食べます。

生物の種類ごとに、いろいろパターンがあるとはいえ、結局は、動物か植物のどちらかを食べています。この分類に例外はありません(※)

さて、ここで太平洋のど真ん中で、魚は何を食べているのかを考えてみます。そこまで行けば海は深いので、もう海草など植物はありません。蟹やタコ、エビなどの磯の動物もいません。果てしなく広く深い大洋の中にいるのは、泳ぐ魚と、海表面近くを浮遊する植物性プランクトンだけ。

「すべての動物は動物か植物かどちらかを食べる」という前提から考えると、太平洋を泳ぐ魚は、植物性プランクトンか、魚かどちらかを食べていることになります。

この間、テレビを見ていたら、マグロが、魚の群れにつっこんで、ガブ食いしている映像を見ました。そうか、魚は魚を食べるのかとあらためて実感しました。 日の届かない深海にも深海魚がいます。彼らは何を食べているのか。光が届かず、光合成ができない深海には植物はいません。まわりには深海魚しかいません。ということは、深海魚の餌は深海魚しかありません(海上から沈んでくる、クジラの死体を食っているかもしれませんが)

むかし、「死んだ魚を見ないわけ」という本がありました。確かに我々は魚の死体を見ることはまずありません。その理由は、その本で明言はされていないものの、結局のところ、「魚の一生は、他の魚に食べられて終わるから」ということのようでした。

魚の人生(魚生?)に自然死はあるのでしょうか。それとも、その一生は必ず「食べられて終わり」なのでしょうか。

魚には痛覚がないと聞いたことがあります。ぜひ、そうあって欲しい物だと思いました。 ※ 正確には、深海の底の底に住むチューブワーム(動物)や地底の微生物は、火山の硫黄ガスを食べて生きていますが、ここではそれは意図的に考えないことにします。